宇都宮 基師(うつのみや もとし)
昭和14年9月27日、愛媛県八幡浜市生まれ。八幡浜高校から立教大学へ進学。卒業後、南海放送へアナウンサーとして入社。退職後、フリーアナウンサーとしてラジオ生番組や競輪実況中継等を経て、現在『瀬戸風バンク応援隊長』としてCS番組に出演するほか、初心者の女性を対象に分かりやすく競輪を教える『競輪コンシェルジュ』として活躍中。競輪歴○十年!! 
血液型:A型、モットー『楽しく生きる』、趣味『ケイリンの他にゴルフと公園の清掃』

第1回『ちょっと自己紹介編』

 競輪ファンの皆さん、こんにちは。

 松山競輪で『瀬戸風バンク応援隊長』と『競輪コンシェルジュ』をしている“もっくん”です。

 今回から1ヵ月に1回(できるだけ(笑))、日頃感じていることなどを筆の赴くままに“よもよも”と綴っていきたいと思います。ずぼらな(いい加減な)性格上、あまり堅苦しいことは書けませんので(笑)、ちょっと息抜きに肩肘張らず、軽~い気持ちで読んでもらい、日々の疲れた気分をリフレッシュしてもらえたら幸いです。

 さて、記念すべき(笑)第1回目は、もっくんの簡単な生い立ちと競輪との出合いについてご紹介したいと思います。

楽しかったふるさと八幡浜時代

 僕の生まれ育った八幡浜(やわたはま)ってところは、漁業とみかんのまちで、家も海のすぐ近くだったので、小学校のときなんかは家に帰るとそのまんま海に走って泳いでましたね。じいさんに伝馬船に乗せられて沖へ行って、ドーンと船から落とされて、溺れそうになりながら必死に泳ぐ。そんなんで泳ぎを覚えました。

 小さい頃ほかに何して遊んだかったら、缶蹴りとか、山へ行ってチャンバラとか。小学校のときは体がどっちかいうと、「トンボ」みたいにもうホント弱くて、運動なんかあんまりした記憶がないです。中学へ入って野球部で、セカンドやりよったですかね。あんまりホントのこと言えんですけど、タバコとか酒も隠れてしよりました(笑)。中学やったか高校やったか、まだやっちゃいかん頃に。でも学校では絶対しなかった。悪ガキが集まって、おもしろ半分でしてたんでしょうね。

 スポーツが好きだったので、高校ではテニス部に入りました。テニスは野球より楽やろと思って。練習は確かに楽なんですよ(笑)。ところが試合は野球の数倍しんどい。野球の場合は守ってても、一球一球休む時間もあるし、自分のところ来なかったら、そんなにしんどくないですけど。テニスはもう全部動かないかんので、めちゃくちゃしんどかった。しもた(しまった)、これなら野球のほうが良かったかなと思ったりしたこともあります(笑)。

 まぁ、高校時代はテニスもやりながら、そういう悪ガキ、仲の良い4人組と、あんまり勉強することなく(笑)、よく遊びまわったですね。マージャンしたり、ホント楽しかった。もう1度昔に戻れるとしたら、高校時代に戻りたい。それくらい楽しかったですね。

初めての競輪に大興奮

 そして高校を卒業して、東京へ出ました。東京の大学へ入るつもりで。だけども、入学できなくて浪人して、予備校へ通いました。そして念願かなって大学へ入学しても授業にはなかなか行かないで(笑)、下宿で毎日マージャンしたり、夜は酒飲み行ったり…。親から仕送りしてもらっても、1週間でなくなる(笑)。賄いつきの下宿だから、食べることはなんとかできたけれども、情けない大学生活でしたね。

 でも、そんなときに友人と“競輪行こうや”ってなって。20歳のときですかね。行ったのが後楽園競輪場。もう今はありませんけどね。なんかあのドキドキっていうかワクワクというか、妙な気分やったのは今でも憶えてます。やっぱり初めて見るものとかなんか興奮するじゃないですか。フェンスにしがみついて見よったんですけど。あのゴール前の迫力には興奮したですね。それとあの自転車の音。シューシューとかいう。なんかかっこええなぁと思ったりね。でもなんでヨーイドンいうて号砲鳴ったのに、ゆっくり走るんやろかなぁと、もうちょっとはよ(早く)走ればええのになぁと思ったり(笑)。最後にあの鐘が鳴ってバババッとスピードが出て、ゴール前で何人もの選手がどーっと突っ込んでくるの見て、びっくりしたですね。ウワッーこれすごいなぁと。その頃は打鐘だとかジャンとかいうのも何も知りませんから、なんや鐘が鳴り出したぞと思って、戦時中を思い出しましたね(笑)。

 最初はそういう知らないことが次々起こってましたから、興奮したのを憶えてますね。そして、やはり男の迫力に魅了されましたね。それ以来ず~っと、競輪の魅力に取り付かれています。

 学生時代はいりびたりというほどお金はありませんでしたけれども、後楽園・立川・京王閣そして千葉とか。仕送りに余裕があるときにはよく通ってましたね。

仕事でも競輪と腐れ縁

 大学を卒業して愛媛へ帰って来てからも、もちろん当時、堀之内にあった松山競輪場へ通いました。仕事が忙しかったから、そんなには行けなかったですけど、楽しませてもらいました。

 その後、昭和53年くらいに、ラジオで競輪の中継「サイクルジョッキー」というのをやることになって。もちろんそのお鉢が回ってきますわね(笑)。やっぱり競輪知ってる人じゃないとなかなか中継できないということで。だけど、それは生でやるんではなくて、録音でやったんですよ。録音でも自分でデンスケっていう録音機を手で回してやる時代なんですよ。それを競輪場へ持って行って、レースが始まると1人で録音して。そして、当時は10レースまででしたから、8・9・10と3レース録音して。だいたいレースが終わるのが4時半くらいですよね。そして、それを会社に持って帰って5時過ぎでしょ。それに全レースの結果を入れて10分間の番組に編集するんですよ、放送が始まる7時までに。だからこれはもう、めちゃくちゃ。1番ひどいときは放送開始の1分前にテープを提出ってこともありましたよ。もう冷や汗が出ましたわ(笑)。これを月2回、3年くらいはやったと思いますね。

 それで、その後2、3年して、生放送でやるようになったんですね。そしたら楽になりましたよね。ディレクターと音屋さんと3人体制ですね。今考えたらよくあんな神業みたいなことができたなぁと(笑)。めちゃくちゃ苦労しましたけど、学生時代から競輪と触れ合ってきた僕としては、こういう番組ができるのは非常に嬉しかったですね。だから苦労はあったけれども楽しかったですよ。